昨日

祖母が亡くなりました。
私は、日本のある島で生まれました。
もともとは、その島で母親も育ちました。
数年前に母親が、くも膜下出血で倒れ、入院している時に一通の葉書が届きました。
母親宛ての同窓会の葉書でした。
何十年も音信不通であったのに、届いた葉書。
何か、それが母親へのエールのように私には感じられました。
母親が元気になったら、一緒に島を訪れてみようと思っていました。
幸い、後遺症もほとんどなく。
なんのあてもなかったのですが、母親の体調も落ち着いていたので、母親と、祖母を連れて島を訪れました。
その頃、祖母は少しおかしな言動が目立ち始めていました。
私のことも、時々、忘れてしまっているようでした。
祖母は私が幼い頃に、私をおぶって、浜辺に仕事に出ていたそうです。
その仕事場にお邪魔したところ、本当に偶然というか、
母親の同級生で、一番の親友の方が、「たまたま」体調を崩してしまって、その仕事場近くの実家に帰ってきていました。
母親が一番、会いたかった親友とも再会できて、私も嬉しかったです。
ですが、祖母は仕事場で一緒だった方とお会いしても、あまり思い出せず、相手の方がとても悲しそうな顔をされていました。
本当はゆっくりもしたかったけれど、祖母が帰りたいと言うので、一晩だけ旅館に泊まって、翌日、戻りました。

もう数年前から寝たきりの状態でした。
何度も危険な状態になりながらも、持ち直していて、今回もと願っておりました。
春に会った時は手を握ると力強く握り返してくれました。

私の父親は、少しユニークな人間でした。
もう既に他界しています。
父親の死を知ったのは、数年前に加古川でバレー教室が行われた次の日でした。
警察から電話がかかってきました。
一人暮らしをしていた父親の死についてのお話と、解剖についてのお話でした。
しばらくして、父親の葬儀についてのお話を、父親のことを気に掛けてくださっていた方とお話しました。
「最期は」
そう言って、言葉を詰まらせて、泣いてくださいました。

その父親について、祖母はこんなことを言ってくれました。
「みんな、お前の父親のことは、あまりよく言わないけれど、私は好きだった。トラックの助手席に乗せてくれて、いろんなとこに連れて行ってくれて、楽しかったよ。
娘は3人いて、亭主も3人いるけれど、私のことを「母さん」って呼んでくれたのは、おまえのとこの父親だけだったよ。憎めないというか、かわいらしいというか。私は好きだったよ」

人は遅かれ早かれ、いずれは。
祖母は天寿を全うしたのだと思います。
私も、頑張りたいと思います。